高野山へ行くと決めてから、いちばん困ったのは「どこから歩けばいいのか分からない」ことでした。山上に町がまるごとあり、壇上伽藍、金剛峯寺、奥之院と見どころが数キロにわたって散らばっています。半日で回れるのか、予習は要るのか、要るとしたら何を読めばいいのか。書店で四冊を前にして、しばらく決められませんでした。
結論から書くと、四冊のうち現地で本当に効いたのは一冊だけでした。残りが悪い本だったわけではなく、効く場面が違っただけです。ここではその四冊を、歩いた順に沿って比べます。
迷ったら、この一冊から
松長有慶『高野山』(岩波新書)が最短です。高野山真言宗の座主を務めた著者が、山の成り立ちから現在の暮らしまでを一冊で通しています。新書一冊ぶんの分量なので、行きの電車で読み切れます。
高野山は「三つの場所」でできている

記録によれば、空海が嵯峨天皇から高野山を賜ったのは弘仁七年(八一六年)のことです。以来千二百年、ここは真言密教の道場であり続けてきました。歩く側からすると、山上は大きく三つに分かれます。
ひとつめが壇上伽藍。空海が最初に開いた区画で、朱塗りの根本大塔が立っています。ふたつめが金剛峯寺、いまの高野山真言宗の総本山で、事務と儀礼の中心です。みっつめが奥之院。空海が今も生きて瞑想を続けているとされる場所で、その手前に二キロの参道が延びています。この三点を線でつなぐと、そのまま高野山の歴史の順番になります。
歩く前に不安だったこと
不安は三つありました。密教の用語がまったく分からないこと。一日で三つとも回りきれるのか読めないこと。そして、下調べをしすぎると現地で「答え合わせ」になってしまわないか、ということです。
そこで、性格の違う四冊を選びました。松長有慶『高野山』(岩波新書)、中村本然監修『図説 真言密教がわかる! 空海と高野山』(青春新書インテリジェンス)、『ゆったり&じっくり楽しむ 高野山参拝旅 完全ガイド』、そして夢枕獏『沙門空海唐の国にて鬼と宴す 巻ノ一』(角川文庫)。通史・図解・実用ガイド・小説の四方向です。
実際に歩いてみてどうだったか

朝いちばんに壇上伽藍へ入りました。根本大塔の中は立体曼荼羅になっていて、仏像の配置そのものが密教の世界観を表しています。ここで効いたのが図説でした。図版で見ていた配置が目の前に立ち上がるので、解説を読まなくても「これがあの図か」と分かる。用語の壁は、文章より図のほうが早く越えられます。

午後に奥之院へ回りました。参道の両側に、戦国大名から現代の企業まで、およそ二十万基とも言われる墓石が続きます。敵味方が隣り合って並んでいるのを見たとき、はじめて岩波新書の一節が効きました。高野山が中世を通じて「誰も追わない場所」として機能してきた、という説明です。図解では出てこない、時間の厚みのほうの話でした。
三つとも回れたか。回れました。ただし壇上伽藍と金剛峯寺は隣接していて三十分ずつ、奥之院は往復で二時間強を見ておく必要があります。半日は無理で、朝から夕方までの一日仕事です。
四冊のうち、現地で効いたのはどれか
順位をつけるなら、①岩波新書『高野山』②図説の真言密教③参拝旅ガイド④小説、でした。
①は歩いているあいだずっと効き続けます。目の前の建物が「いつ・誰が・なぜ」建てたかが一本の線でつながるからです。②は壇上伽藍と金剛峯寺の内部でだけ、強烈に効きます。③は交通と宿坊の実務では便利ですが、歴史の話はほとんど載っていません。④の小説は、正直に言えば現地では一度も開きませんでした。
ただし④は帰ってから効きました。若い空海が唐で何を学んだのかを物語として読むと、奥之院で見た「まだ生きている」という信仰の形が、少し違って見えてきます。同じ著者の松長有慶『空海』(岩波新書)を続けて読むと、人物のほうから山を見直せます。
合わなかった点と、向かない人
正直に書くと、岩波新書は前半の教義の説明でいちど手が止まりました。密教の思想を先に理解しようとすると重い。私は前半を飛ばして、寺院と歴史の章から読み始めました。順番に読まないと落ち着かない人には向きません。
参拝旅ガイドは、日帰りではなく宿坊に一泊する人のための本です。日帰りなら情報の半分は使いません。逆に、宿坊で精進料理と朝勤行まで体験するつもりなら、この一冊が最も費用対効果が高くなります。
結局、手元に残ったのは
四冊のうち本棚に残したのは、岩波新書の二冊(『高野山』と『空海』)でした。図説は役目を終えて手放し、ガイドは次に行く人へ渡しました。もし一冊だけ買うなら『高野山』、現地で写真と照らしたいならこれに図説を足す。この二冊構成が、いまのところいちばん無駄がありません。
読んでから歩き、歩いてからまた読む。この往復ができる場所として、高野山はかなり上位に入ります。同じ密教の道場としては女人高野と呼ばれた室生寺が対になり、天台の側からは比叡山延暦寺が並びます。日本の仏教全体の流れは日本の仏教史を漫画と本で読む完全ガイドに、空海その人を小説で追うなら司馬遼太郎『空海の風景』にまとまっています。歩ける場所をもっと探すなら歴史さんぽ完全ガイド、費用を抑えたいなら読み放題とレンタルの併用もあわせてどうぞ。
現代の私たちへ
奥之院の参道で心に残ったのは、敵だった者どうしの墓が並んで苔むしていることでした。争いの決着は、勝ち負けがついた時点ではなく、両方を同じ場所に置ける誰かが現れて初めてつく。千二百年かけて高野山がやってきたのは、たぶんそういう仕事です。※諸説あります。



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