伊達騒動という言葉から思い浮かぶのは、たいてい「幼い藩主を毒殺しようとした悪玉家老」の顔だと思います。歌舞伎でも講談でも、原田甲斐はずっとその役でした。山本周五郎の『樅ノ木は残った』は、その配役をまるごとひっくり返した長編です。
新潮文庫で上・中・下の三冊。仙台藩六十二万石を守るために、あえて悪名を引き受けた男として甲斐を描き直しています。江戸前期の政治劇としての面白さは江戸時代を漫画と歴史小説で学ぶ完全ガイドで挙げた作品群の中でも際立っていました。
迷ったら、この一冊から
『樅ノ木は残った(上)』新潮文庫から入るのが素直です。上巻だけで甲斐の立ち位置がはっきりするので、続きを買うかどうかをここで決められます。
伊達騒動とは何だったのか
寛文年間、仙台藩では藩主の伊達綱宗が逼塞させられ、二歳の亀千代が跡を継ぎます。後見に立った伊達兵部と、その周囲に集まった一門との間で藩の実権をめぐる争いが続き、最後は江戸の大老屋敷での刃傷に至りました。記録によれば、この場で原田甲斐は斬られ、原田家は断絶しています。
ただし、甲斐が何を考えていたのかを直接に語る史料は乏しく、動機については諸説あります。悪玉として語り継がれてきたのも、事件の後に藩が残した説明が長く定説になったためだと言われます。周五郎はその空白に、まったく別の像を置きました。
上中下の三冊が、それぞれ担っているもの
上巻は舞台づくりです。仙台と江戸を往復しながら、誰がどの派に属しているのかが少しずつ見えてきます。『樅ノ木は残った(中)』新潮文庫の中巻に入ると、甲斐が周囲から誤解されはじめ、弁明を一つずつ捨てていく過程が続きます。ここが長いと感じる人もいると思いますが、この我慢の描写があるから終盤が効きます。
『樅ノ木は残った(下)』新潮文庫の下巻で、甲斐は自分の名を差し出して藩を残す側に回ります。私は下巻の後半を通勤の電車で読み終えて、降りる駅を一つ乗り過ごしました。悪人が実は善人だったという単純な反転ではなく、誰にも説明しないと決めた人間の疲れが、最後まで淡々と書かれているからです。
読んでいて効いた三つのところ
ひとつめは、甲斐がほとんど自分の内心を語らないことです。地の文も甲斐の考えを説明しません。読者は周囲の人物の見立てを通してしか甲斐に近づけないので、途中まで本当に黒いのではないかと疑いながら読むことになります。
ふたつめは、樅の木そのものの扱いです。屋敷に立つ一本の木が、章をまたいで何度も出てきます。派手な象徴として説明されないぶん、読み終えたあとに残り方が強い。私は読了後に松島・瑞巌寺の歴史さんぽへ出かけて、政宗が建てた伽藍を見ながらこの木のことを思い出していました。
みっつめは、女性たちの書き方です。宇乃をはじめ、政治の外側にいる人物の時間が丁寧に流れていて、藩の権力争いだけの小説にはなっていません。ここが合うかどうかで、三冊を走り切れるかが決まると思います。
はじめて読む人がつまずきやすいところ
いちばんの関門は登場人物の多さです。伊達一門、幕府側の役人、原田家の家臣と、名前が似た人物が並びます。私は上巻の途中で一度止まり、紙の端に「甲斐の味方」「兵部の側」「どちらとも言えない」の三列だけ書き出しました。それだけで中巻以降の読みやすさが変わります。細かい官職名は覚えなくても筋は追えます。
もうひとつは、事件の結末を先に知っておくかどうかです。伊達騒動そのものは記録の残る史実なので、結末を知っていても損はありません。むしろ「そこへどう歩いていくか」を読む小説なので、先に事件の概要を押さえたほうが中巻の停滞感が減ります。ただし作中の解釈は周五郎の創作であり、原田甲斐の動機については諸説あるという前提は持っておいたほうがよいと思います。
どの版で読むと自分に合うか
文庫三冊なら上八百二十五円・中八百二十五円・下八百八十円で、合わせて二千五百三十円です。三冊まとめて手元に置きたい場合は上中下の三冊セットも出ています。まず紙で試したいなら楽天ブックスの上巻、最後まで行くと決めているなら下巻まで先に確保しておくと、中断せずに読み切れます。
三冊でおよそ二千五百円という価格は、長編としては標準的です。同じ物差しで他の長編と比べたい方は長編の歴史まんが・歴史小説は全巻そろえるといくら?に総額の一覧があります。読み放題やレンタルを組み合わせる場合の考え方は読み放題とレンタルの併用がいちばん安い理由にまとめてあります。
現代の私たちへ
誤解されたままでいることを選ぶ人は、組織の中に必ずいます。説明すれば自分は楽になるけれど、説明した瞬間に守りたかったものが崩れる。甲斐がやったのはそういう計算でした。私たちが日々の仕事で「言わないでおく」を選ぶときも、たいていは同じ天秤を持っています。悪名の側に立った人を、後の世代がどう読み直すか。この小説はその読み直しそのものです。
読んだあとに立ち寄りたい場所と、次の一冊
舞台は仙台と江戸です。東北の千年をまとめて眺めたいときはみちのくの歴史を漫画と歴史小説で学ぶ完全ガイドが地図の役割をしてくれます。前日に取り上げた池波正太郎『剣客商売』と並べると、同じ江戸でも市井を書く筆と藩政を書く筆がここまで違うのかと分かります。人が人へ何を託すのかという軸で読み継ぎたい方には師弟で読む歴史まんが・歴史小説 完全ガイドが近い場所にあります。
▶ この作品を「『もう遅い』と言われる年齢から動いた歴史まんが・小説4選」でも取り上げました(五十歳の父・還暦の剣客・悪名を選んだ家老・三十八歳の新人作家)



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