ウンベルト・エーコさんの『薔薇の名前』は、中世の北イタリアにある修道院で、修道士が次々と不審な死を遂げていく小説です。語り手は年老いた修道士アドソ。見習だった頃に付き従っていたイギリス人修道士、バスカヴィルのウィリアムとともに、迷宮のような構造を持つ文書館へ踏み込んでいった日々を回顧していきます。全世界で5000万部を超えたと紹介される、知の巨人の問題小説です。
その日本語版に、2025年12月、東京創元社から[完全版]が出ました。この記事では旧版と何が違うのかを版元の説明から整理したうえで、上下2冊をいくらで読めるのかを紙・電子・楽天ブックスの3経路で分解します。価格はすべて2026年10月15日に商品ページで確かめた実測値です。
迷ったら、この1冊から
最初の1冊は[完全版]上巻の電子版(2,970円)をおすすめします。文書館に初めて入るくだりまで読めば、この小説が殺人事件の謎解きであると同時に「本をめぐる話」だと分かるので、自分に合うかどうかは上巻で判断できます。紙は412ページ・厚さ2.5センチで、持ち歩くには重い1冊です。
[完全版]とは——エーコ自身の手が入りつづけた本を、最後の形で読む
版元の説明を読むと、[完全版]は訳し直しというより「作者が死ぬまで直しつづけた原本に、日本語版を追いつかせた版」だと分かります。収められているのは次の4点です。
- 初版以降にエーコさん自身が加えた訂正・削除をすべて反映した本文
- 2012年版に作者自身が寄せた、その修正についての付記(巻頭)
- エーコさんが下描きした文書館の図面、登場人物のスケッチ、中世の生活のスケッチ
- かつて別巻として而立書房から出ていた『「バラの名前」覚書』を本編に収録
訳者の欄には河島英昭さんと河島思朗さんの名前が並びます。版元の説明によれば、河島英昭さんは翻訳の途中で病に倒れ2016年に逝去されたため、ご子息の河島思朗さんが引き継ぎ、古典語を専門とする立場からラテン語部分の見直しと本文の訂正を加えたとのことです。覚書の訳文も、河島英昭さんが用意していたものを河島思朗さんが見直して収めた形になっています。
わたしが[完全版]で一番ありがたかったのは、図面が本編と同じ巻に入っていることでした。この小説は建物の構造が謎そのものなので、迷ったときに紙をめくって見取り図へ戻れるかどうかで読みやすさがまるで変わります。旧版で読んだときは、頭の中に建物を組み立てるところで何度も止まりました。
受賞歴も版元の記載から拾っておくと、イタリアのストレーガ賞、フランスのメディシス賞、日本翻訳文化賞、日本翻訳出版文化賞。翻訳そのものが評価されてきた本でもあります。
いくらで読める?——紙6,820円と電子6,138円を、ポイントまで入れて分解する
[完全版]は上下2巻です。通読するには2冊そろえる必要があるので、1冊単位ではなく合計で見ます。
[完全版]の紙と電子(2026年10月15日 実測)
- 単行本=上3,300円(99ポイント)+下3,520円(106ポイント)=6,820円/付くポイントは合計205
- 電子=上2,970円(30ポイント)+下3,168円(32ポイント)=6,138円/付くポイントは合計62
- 表示価格の差は682円、電子のほうが安い
- ポイントを値引きとして差し引くと、紙6,615円・電子6,076円=実質の差は539円に縮む
つまり紙は定価が1割高いかわりに、ポイントで4分の1ほどを取り返す構図です。ポイントを使わない方なら電子で682円浮き、ポイントを必ず使う方なら差は539円まで縮む。ここが「どちらでもよい」と言われがちな理由で、金額だけでは決め手になりません。決め手になるのは上で書いた図面と、412ページの重さのほうです。
旧版(1990年刊)は、いま上下そろわない
「安く済ませたいから旧版で」と考える方のために、旧版も同じ日に実測しました。結果は通読の前提にできないでした。
- 旧版 上巻=3,180円で「残り5点」。カートに入れるボタンは出ます
- 旧版 下巻=600円で「残り1点」。ただしカートに入れるボタンが出ません(2026年10月15日 実測)
上巻だけ新品で買えて下巻が買えないので、旧版は「上下そろえる手段」として数えられません。しかも[完全版]は上で見たとおり本文そのものに訂正が入っているので、安さを追って旧版の上巻だけ買うと、下巻で版が混ざることになります。通読するなら[完全版]で統一するのが確実です。なお下巻の1点が在庫として残っているうちは表示だけは出ますので、見た目に惑わされないでください。
楽天ブックスは紙が同額、送料無料
楽天ブックスでも紙の[完全版]を確認しました。上巻3,300円・下巻3,520円でAmazonの紙と同額、どちらも在庫ありで上巻は送料無料の表示が出ます。楽天のポイントをためている方は、紙ならこちらでも損はありません。
もう一段ほしい方は、読み解きの1冊を足す
この小説は、読み終えたあとに「結局あの文書館は何だったのか」で止まる人が多い本です。筋の外側を補うなら、慶應義塾大学出版会の「世界を読み解く一冊の本」シリーズに『エーコ『薔薇の名前』——迷宮をめぐる〈はてしない物語〉』(2021年4月刊・244ページ)があります。単行本2,640円、電子2,587円で差は53円。[完全版]の電子6,138円に足して8,725円で、「物語として通る」と「仕掛けとして分かる」の両側がそろいます。
読みどころ——文書館という迷宮が、謎そのものになっている
事件は、版元の紹介にあるとおり「ヨハネの黙示録」の記述に沿う形で起こっていきます。鍵は文書館に隠されているらしい、という方向にウィリアムは当たりをつけ、アドソを連れて建物の奥へ入っていきます。ここで効いてくるのが建物が迷宮の構造をしているという設定です。謎を解くために部屋を回るのですが、部屋を回ること自体が謎になっている。推理小説の道具立てと、建築と、本の分類が同じ一つの仕掛けに畳まれています。
もう一つの軸は、笑いをめぐる議論です。笑ってよいのか、笑いは何を壊すのか。修道院という閉じた場所で、本を読む自由がどこまで許されるのかという話に変わっていきます。作中で鍵になる書物については、知らずに読んだほうが確実におもしろいのでここでは触れません。
わたしが旧版を読んだとき、前半の100ページでだいぶ苦戦しました。中世の修道会の名前と役職がどっと出てくるので、人の顔が覚えられないのです。いま振り返ると、前半は分からないまま進んでよかったと思います。後半で同じ人物が別の顔で出てくるので、そこで自然につながる。最初から全部理解しようとすると、たいてい前半で止まります。
こんな人におすすめ/向かない人
- 中世ヨーロッパの修道院という「閉じた世界」の内側を、物語として歩いてみたい人
- 謎解きの筋立てと思想の議論が同時に進む小説を読みたい人
- 本・図書館・分類という主題そのものに興味がある人
- 旧版で一度挫折していて、図面つきでもう一度挑みたい人
- 逆に、短時間で読み切れる作品を探している人には向きません。上下2冊で800ページ超です
- 宗教史の正解を知りたい人にも不向きです。中世の教会をめぐる評価には諸説あり、この小説も答えを決めていません
現代の私たちへ
この小説が最後まで手放さないのは、知を囲い込む人と、ひらく人という対立です。文書館は本を守るために鍵をかけ、鍵をかけたことで人を遠ざけます。わたしたちの職場にも、同じ形の箱があります。資料は整っている、権限がないから見られない。守るための仕組みが、使うための仕組みを食べてしまう。「誰のために閉じているのか」を一度口に出してみること——600年以上前の修道院から持ち帰れるのは、そのくらい素朴で、そのくらい面倒な宿題です。
まず費用をかけずに読み始めたい方へ
読み放題や朗読の無料体験から入ると、合わない本に当たっても損をしません。対象作品は入れ替わりますので、気になる本があるかどうかはリンク先でご確認ください。
結論——金額で決まらない本なので、読み方で決める
もう一度数字だけ並べます。紙6,820円(ポイント205)、電子6,138円(ポイント62)、実質の差は539円。旧版は下巻が買えないので候補から外れる。楽天ブックスの紙はAmazonと同額。539円で決める買い物ではない、というのが実測の結論です。
そのうえで選ぶなら、図面を何度も見返したい方は紙、通勤や寝る前に少しずつ進めたい方は電子。800ページを持ち歩く覚悟があるかどうか、だけで決めてしまってよいと思います。読み解きの1冊を足すなら、本編を読み終えたあとに買うのがおすすめです。先に読むと、仕掛けの答えが分かってしまいます。
同じ14世紀のヨーロッパを、版の違いまで含めて選ぶ話としては久慈光久『狼の口 ヴォルフスムント』の新旧版の選び方が隣にあります。教会と学問がぶつかる主題をまんがで読むなら、魚豊『チ。—地球の運動について—』が続きになります。
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