受け継いだものを、次の誰かへどう渡すか。歴史小説を続けて読んでいて、わたしがいちばん手が止まるのはいつもこの一点でした。当サイトで単品記事を書いた小説から、その一点に正面から向き合った三冊を選びました。奈良の女帝、平安の仏師、明治に取り残された幕臣。渡すために立った人・形にして残した人・渡す相手を失った人という三方向で読むと、継ぐという行為が「誰から受けたか」ではなく「どう手放すか」の問題だと見えてきます。
この三作に共通する効きどころ——継承は「受け取る場面」ではなく「手放す場面」に出る
継承を扱った物語は、たいてい受け取る側の苦労から書き出されます。けれど実際に読んでみると、話が動くのはいつも渡す側が「自分のやり方を手放す」と決めた瞬間でした。三作はその瞬間の形がそれぞれ違い、並べると継ぎ方の見本帳になります。
今回の三作は、次の条件で揃えています。
- 受け取る場面と渡す場面が、どちらも作中にある。片方しかない作品は「継承の話」に見えて、実は立身の話か別れの話になります。
- 全1巻から全2巻まで。長大な大河ものを避けたので、継ぐ・渡すという一本の線を見失わずに読み切れます。
- 時代が奈良・平安・明治に散っている。同じ時代で揃えると「その時代だから」で片づいてしまい、継承のかたちの違いが見えません。
以下は、わたしが読んだ順ではなく、渡し方の難易度が上がる順に並べています。
『美貌の女帝』永井路子(文春文庫・Kindleあり/全1巻)/渡すために位に就いた人
なぜ効くか。主役は奈良時代の元正天皇です。母の元明天皇から位を受け継ぎますが、父である草壁皇子は即位する前に亡くなっており、元正は「天皇の娘」ではなく「皇子の娘」として立った前例のない天皇でした。つまり彼女の即位は、自分が頂点に立つための即位ではなく、次の世代へ位を渡すための中継ぎとして設計されていた側面があります。藤原不比等が律令国家の骨格を組み上げていく過程と重ねて読むと、継承が血の問題から制度の問題へ移っていく瞬間が見えます。※即位の経緯や不比等の意図については諸説あります。
わたしの推し。中継ぎを引き受けた人の心細さが、権力の描写よりずっと丁寧に書かれています。自分の代で何かを完成させられないと分かっている立場、というのは現代の組織にもそのままあるもので、読み終えたあとしばらく元正のことを考えていました。永井路子さんは『炎環』で鎌倉の女性たちを描いた作家で、記録に名前の残らない側から政治を描き直す手口は本作でも変わりません。
『満つる月の如し 仏師・定朝』澤田瞳子(徳間文庫・全1巻)/受け取った技を「様式」という形にして渡した人
なぜ効くか。平安中期、藤原道長・頼通の時代に仏像を彫りつづけた仏師・定朝が主役です。定朝は父と伝えられる康尚の工房を受け継ぎ、のちに「定朝様」と呼ばれる和様彫刻の規範をつくった人物として記録に残ります。※定朝と康尚の関係については諸説あります。言葉を残さない手の仕事が、どうやって後世へ渡るのか——その答えが「個人の腕ではなく、誰でも再現できる形にする」だったという点が、この小説のいちばん強いところです。第32回新田次郎文学賞と本屋が選ぶ時代小説大賞2012を受けた一冊です。
わたしの推し。職人を主役にした小説はたいてい「腕」の話になりますが、本作は腕を手放して型にする話です。自分しかできないことを、自分でなくてもできるようにする。これを損だと思わない人の内側が書かれていて、読みながら何度か本を置きました。三作のなかで最初の一冊に薦めるなら、わたしはこれを選びます。
まずは一冊から試す(『満つる月の如し 仏師・定朝』澤田瞳子)
Amazonで文庫版『満つる月の如し 仏師・定朝』を見る
AmazonでKindle版『満つる月の如し 仏師・定朝』を見る
楽天ブックスで『満つる月の如し 仏師・定朝』を見る
『警視庁草紙』山田風太郎(角川文庫・上下/全2巻)/渡す相手を失った作法はどこへ行くか
なぜ効くか。明治五年の東京。江戸が東京へ名を変え、幕臣たちが一斉に職を失った直後の街で、旧幕府の同心や岡っ引きが薩長のつくった新政府の警察をひたすら困らせていきます。彼らが手にしているのは江戸二百数十年ぶんの捕物の作法で、腕は確かなのに渡す相手がいません。継承の三作目にこれを置くと、受け継ぐ側がいなくなった技術は何になるのかという、前の二作では出てこない問いが立ちます。
わたしの推し。負けた側から明治を見る視点が、笑いの形で差し出されるところが山田風太郎さんのうまさです。痛快な連作として読めるのに、読み終えると「渡せなかった」という事実だけが静かに残る。元正や定朝のような受け渡しができなかったときに何が起きるかを知っておくと、前の二作の重さが変わって見えます。
現代の私たちへ——継承がうまくいくかは、渡す側が「自分のやり方」を手放せるかで決まる
三作を並べて読んで、わたしの中に残ったのはひとつの線でした。元正は自分の代で完成させないことを引き受け、定朝は自分しかできないことを型に変え、旧幕府の同心たちは自分のやり方を抱えたまま渡す相手を失いました。継承の成否を分けたのは、受け取る側の優秀さではなく、渡す側がどこまで自分のやり方を手放したかでした。
仕事を引き継ぐとき、わたしたちはつい「正しくやってきた自分の手順」をそのまま渡そうとします。けれど定朝のやったことは逆で、自分の腕に依存している部分を削って、誰でも再現できる形だけを残すことでした。手放すのは惜しいことのように思えますが、残るのは手放した部分だけなのかもしれません。歴史小説がこの手触りを教えてくれるのは、結末まで含めて「渡したあと」が書かれているからです。
もっと気楽に試したい方へ
紹介した三作は文庫でも千円前後ですが、「まず一冊、合うかどうかだけ確かめたい」という場合は読み放題や耳読みの初回無料から入るほうが早いことがあります。
まとめ——受け取る覚悟より、手放す段取りを
継承を描いた歴史小説を探すとき、「立派に受け継いだ人」の話を探してしまいがちです。けれど読みごたえがあるのは、渡す側の段取りが書かれている作品でした。最初の一冊には『満つる月の如し 仏師・定朝』を薦めます。全1巻で読み切れて、手放すという主題がいちばんはっきり出ているからです。制度として継ぐ話が読みたければ『美貌の女帝』、継承に失敗した側から見たければ『警視庁草紙』へ進んでください。
あわせて読みたい
教えた人と受け取った人の関係そのものを追うなら
定朝の時代と仏像の背景をたどるなら
平安時代を漫画と歴史小説で学ぶ完全ガイド/日本の仏教史を漫画と本で読む完全ガイド
元正天皇の立った奈良と、その前の時代を知るなら
まんがから活字の歴史小説へ渡るところでつまずいているなら



コメント