夏の夜空にひらく大輪の花火。ほとんどの人は「涼をとるための、楽しい行事」として眺めています。ところが隅田川の花火については、その始まりが飢饉と疫病で亡くなった人たちの慰霊だったと伝えられています。
私が両国橋のあたりを歩いたとき、正直なところ「花火の名所」以上の感想は持っていませんでした。ところが橋のすぐ東に回向院という寺があり、そこが江戸最大の火災の犠牲者を弔うために建てられた場所だと知って、この一帯の見え方が変わりました。ここは、江戸が繰り返し大量の死者を出し、そのたびに弔い直してきた土地なのです。読んでから歩くと、同じ河原がまったく違って見えてきます。

花火の始まりは「祭り」ではなく「供養」だった
記録によれば、享保17年(1732年)、西日本を中心に大規模な凶作が発生します。いわゆる享保の大飢饉です。翌年にかけて江戸でも疫病が流行し、多くの人が亡くなりました。
そこで享保18年(1733年)、八代将軍・徳川吉宗が犠牲者の慰霊と悪疫退散を祈って、隅田川で水神祭を行ったと伝えられています。このとき花火が打ち上げられたことが、のちの「両国の川開き」の起こりとされます。※開催の経緯や規模については諸説あり、後世に整えられた由来という指摘もあります。
つまり、あの光は「めでたいから上げたもの」ではなく、「これ以上死者を出さないでくれ」という祈りから始まったことになります。同じ火薬でも、意味が正反対です。
「たまや〜」「かぎや〜」は花火屋の名前
花火の掛け声として知られる「たまや」「かぎや」は、どちらも実在した花火師の屋号です。
二つの花火屋
- 鍵屋:江戸の花火を長く担った老舗。創業は万治2年(1659年)と伝わります
- 玉屋:文化7年(1810年)ごろ、鍵屋から暖簾分けして独立したと伝わります
両国橋の上流と下流に分かれて打ち上げ、観客がひいきの屋号を叫んだ——これが掛け声の由来とされています。
おもしろいのは、人気で上回っていたのは新参の玉屋のほうだったと伝わることです。ところが天保14年(1843年)、玉屋は失火を出して江戸を追われ、わずか一代で姿を消します。それでも掛け声にだけは名が残り、いまも夏になると誰かが「たまや」と口にする。店は消えても、声だけが百八十年以上生き延びている——このねじれ方が、私は妙に忘れられません。
なぜ「川」で上げたのか
花火が川の上で上げられたのには、実務的な理由もあります。当時の江戸は木造家屋が密集し、明暦の大火をはじめ何度も大火に見舞われてきました。火の粉が落ちて燃え広がれば、慰霊どころではありません。水面の上なら、燃えるものがない。だから川だったわけです。
加えて、両国橋という大勢が同時に眺められる高い場所があり、周囲には料理屋や見世物が集まる盛り場が育っていました。慰霊の行事は、いつしか江戸最大級の夏の娯楽へと姿を変えていきます。祈りが商売を呼び、商売が行事を続けさせた——花火が三百年近く絶えなかったのは、信仰心だけでなく「儲かったから続いた」という身も蓋もない事情もあったはずです。私はこの現実的な部分こそ、江戸という都市の強さだと感じます。
歩き方|両国橋から回向院へ、弔いの土地をたどる
花火だけを目当てに行くと一晩で終わりますが、昼間に歩くとこの街の骨格が見えてきます。
- 両国橋:明暦の大火(1657年)で多くの人が対岸へ逃げられず亡くなったことを受け、避難路として架けられたと伝わる橋。武蔵国と下総国の「両国」をつないだことが地名の由来とされます
- 回向院:明暦の大火の身元不明の犠牲者を葬るために建立された寺。以後、災害や無縁の死者を分け隔てなく弔ってきました
- 旧安田庭園・隅田川テラス:川面と橋の関係が体でわかる場所。花火の打ち上げ位置を思い浮かべながら歩けます
- 秋田・竿燈まつり 歴史さんぽ:夏祭りが「流す」行事だった頃へ
橋があるのは災害の記憶があったから。寺があるのは弔いきれない死者がいたから。花火が上がるのは疫病があったから。この街の名所は、ほぼすべてが「たくさん死んだ」ことの裏返しです。それを知って川辺に立つと、涼しさの感じ方まで変わります。
読んでから歩くと、もっと効く
江戸という都市の仕組みや、そこに生きた人の感覚をつかんでおくと、この一帯の歩き方が変わります。将軍と幕府の側から江戸の成り立ちを追うなら山岡荘八『徳川家康』、江戸城の内側から時代を見るならよしながふみ『大奥』が入口になります。
また、同じ江戸の「祈りと盛り場」が重なった場所として浅草寺 歴史さんぽもあわせて読むと、隅田川をはさんだ両岸が対になって見えてきます。浅草が「祈りが盛り場になった場所」なら、両国は「弔いが娯楽になった場所」です。
訪れる前に
隅田川花火大会は、両国の川開きの流れをくむ行事として1978年に現在の形で始まったとされ、例年7月下旬に開催されています。ただし開催日・打ち上げ場所・観覧規制は年によって変わります。訪問前に必ず公式の案内で最新情報を確認してください。混雑が苦手な方は、花火当日ではなく平日の昼間に両国橋と回向院を歩くほうが、この土地の成り立ちはよく伝わります。
現代の私たちへ
災害や疫病の記憶は、たいてい風化します。ところが江戸の人たちは、それを毎年同じ季節に、同じ川で、光として上げ直す方法を選びました。碑を建てて終わりにせず、楽しい行事の形にして繰り返したから、三百年近く続いたのだと思います。
覚えておきたいことほど、深刻な顔のままでは続きません。続く形にした人が、結局いちばん長く記憶を残した——夏の夜空を見上げるとき、その工夫のしたたかさも一緒に思い出したいところです。
写真:PIXTA
歩いたあとに読む1冊
両国・本所・深川——この記事で歩いた一帯が、そのまま舞台になっています。歩いてから読むと、同じ場所がもう一度立ち上がります。



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