『二つの祖国』はどんな小説か
一九八三年に刊行された、山崎豊子さんの代表作のひとつです。舞台は太平洋戦争期のアメリカと日本。主人公の天羽賢治は、日本人の両親のもとロサンゼルスで生まれた二世で、日本語新聞の記者として働いています。開戦とともに彼の日常は崩れ、家族ごと収容所へ送られ、やがて語学兵として日本へ向かうことになります。
山崎さんの小説はいつも取材の厚みで押してきますが、本作もその系譜です。記録によれば、著者は日系人や元通訳への聞き取りを重ねて執筆しており、収容所の生活や法廷でのやり取りには、創作というより証言に近い手ざわりの場面がいくつも出てきます。歴史の教科書では一行で終わる出来事が、名前のある人の一日として書き直されている、と言えばいちばん近いでしょうか。
分量は文庫四冊。一冊あたりの密度が高く、登場人物も多いので、通勤のすきま時間だけで読み切ろうとすると人物関係を見失いがちです。腰を据えて読む本だと最初に決めてしまったほうが、結果的に早く読み終わります。
あらすじ(結末には触れません)
真珠湾攻撃の報が流れた日から、賢治の周囲は一変します。前日まで隣人だった人が敵性外国人として見られ、財産をたたき売って収容所へ移るしかなくなる。一家はばらばらの立場に置かれ、弟は米軍の兵士として、賢治自身は語学の能力を買われて軍属の通訳として、それぞれ戦争のなかへ入っていきます。
やがて日本が敗れ、賢治は占領下の東京に立ちます。焼け跡の街で彼が任されるのは、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判の法廷通訳でした。裁く側の言葉と裁かれる側の言葉、その両方が自分の母語である人間が、法廷の真ん中に立たされる。物語の後半は、この一点に向かって静かに絞り込まれていきます。
ここから先は読んでいただくほうがいいので伏せますが、四巻の終盤には、賢治が「二つの祖国」という言葉をどう引き受けるのかがはっきり書かれています。そこまでの三冊は、そのための助走だと思って読むと迷いません。
読みどころは「どちらにも属せない時間」の書き方
戦争を描いた小説はたくさんありますが、本作が抜けているのは、戦場ではなく手続きの場面を丁寧に書くところだと思います。収容所へ移るまでの通達、持ち込める荷物の制限、法廷での訳語の選び方。派手な事件ではなく、事務的なやり取りの積み重ねで人が追い詰められていく過程が、ほとんど冷たいほどの筆致で続きます。
私がいちばん手が止まったのは、法廷で訳語をひとつ選ぶ場面でした。日本語の言い回しをそのまま英語に置くと被告が不利になり、和らげれば通訳としての正確さを損なう。どちらを選んでも誰かを裏切る、という状況が、数行の会話だけで立ち上がってきます。銃も爆撃も出てこない場面が、いちばん重い。
もうひとつ挙げるなら、家族の描き方です。同じ家に生まれた兄弟が、まったく違う結論にたどり着いてしまう。どちらも間違っていないのに和解できない、という関係が最後まで解けないまま進むので、読んでいてかなり苦しくなります。私は二巻の途中で一度本を閉じ、翌日に読み直しました。急がずに読める環境を先に作っておくことをおすすめします。
読む前に押さえておくと迷わない三つの言葉
日系二世は、日本から移民した一世の子としてアメリカで生まれ、その国の市民権を持つ世代を指します。本作の主人公はこの立場で、法律上はアメリカ人でありながら、外見と出自で扱いが変わっていきます。
強制収容は、開戦後に西海岸の日系人が内陸の収容所へ移された措置のことです。作中ではその通達から移送、収容所内の生活までが順を追って描かれます。細部の評価には諸説ありますが、小説を読むうえでは「市民権を持つ人が、裁判を経ずに移された」という一点を覚えておけば十分です。
東京裁判は、敗戦後に連合国が開いた極東国際軍事裁判のことです。物語の後半はここが舞台になります。裁判そのものの評価は今も割れていますが、本作は判決の是非を論じる小説ではなく、その場で言葉を運んだ人を描く小説です。そこを取り違えなければ読み違えません。
どれで読む?|文庫四冊3,905円と電子合本3,795円、差はたった110円
まず値段を並べます。新潮文庫版は一巻825円、二巻1,045円、三巻990円、四巻1,045円で、四冊そろえると3,905円です。いっぽう電子の合本版は四冊ぶんで3,795円。差はわずか110円で、「電子のほうが圧倒的に安いから電子」という決め方ができない作品です(いずれも2026年9月19日時点の価格です)。
値段で決まらないなら、何で決めるか。私の結論は読む場所で分けるです。理由は三つあります。
ひとつめ。本作は登場人物が多く、家系図のように人間関係を行き来しながら読むことになります。前のページに戻る動作が多い読み方なので、紙の文庫が向いています。四冊に分かれていること自体が、区切りとして機能します。
ふたつめ。合本版は四冊が一冊にまとまるので、巻をまたぐときに買い直す手間がありません。長編を勢いで読み切りたい人、通勤の行き帰りで細切れに読む人には、この「止まらなさ」が効きます。差額110円は、その手間賃と考えれば十分に見合います。
みっつめ。第一巻には朗読版も出ています。人物名が英語と日本語で入り交じる作品なので、耳から入れると名前が定着しやすいという利点があります。歩きながら一巻を聴いて世界に入り、二巻から紙か電子で腰を据える、という入り方は相性がいいはずです。
まとめると、腰を据えて読み返したい人は文庫四冊、通勤で一気に走り切りたい人は電子合本、名前が覚えられるか不安な人は第一巻だけ朗読から。同じ3,900円前後を払うのですから、安さではなく自分の読む場所で選んでください。
こんな人におすすめ
戦争そのものより、戦争のなかで手続きに追い詰められる人を読みたい方。『昭和天皇物語』や『ペリリュー ―楽園のゲルニカ―』で昭和の戦争に触れて、次はアメリカ側から見た日本を知りたくなった方。そして、家族のあいだで答えが割れてしまう話に耐えられる方です。
逆に、読後に前向きな気持ちを持ち帰りたい方には、正直あまり向きません。救いがないわけではないのですが、その救いはかなり遠くにあります。
お得に読む
紙でそろえる場合は四冊ぶん、電子で一気に読む場合は合本版ひとつです。どちらも下から直接ご覧いただけます。
『二つの祖国』一巻(825円)を見る
『二つの祖国』二巻(1,045円)を見る
『二つの祖国』三巻(990円)を見る
『二つの祖国』四巻(1,045円)を見る
『二つの祖国』一〜四巻の合本版(3,795円)を見る
楽天ブックスで『二つの祖国』一巻を見る
まず一冊ぶんの費用を抑えたい方は、初回無料の枠を使う手もあります。対象作品は入れ替わるので、その都度ご確認ください。
現代の私たちへ
賢治が苦しむのは、能力が足りないからではありませんでした。二つの立場のどちらにも、本気で足を置いてしまったからです。片方に寄り切れる人は、こんなに迷いません。会社と現場、家庭と仕事、古いやり方と新しいやり方。どちらの言い分もわかってしまう位置に立った人は、たいてい両方から中途半端だと言われます。この小説を読むと、その立ち位置は弱さではなく、たまたま両方が見えてしまう場所に立っただけなのだと思えてきます。訳しにくい言葉を抱えたまま、それでもその日の仕事をした人の記録として読みました。



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