日本人が自分の手で暦をつくったのは、たった一度だけです。それをやったのは天文学者でも役人でもなく、碁を打つのが仕事の男でした。冲方丁(うぶかた とう)さんの『天地明察』は、江戸前期の碁打ち・渋川春海が、八百年以上ずれ続けた暦を作り替えるまでを描いた長編です。2010年の本屋大賞を受賞し、槇えびしさんによる漫画版も全9巻で完結しています。
『天地明察』とはどんな作品か
『天地明察』は冲方丁さんが2009年に発表した歴史小説です。2010年の本屋大賞第1位、第31回吉川英治文学新人賞を受賞し、2012年には滝田洋二郎監督・岡田准一さん主演で映画化もされました。※受賞歴・映像化の年は各版元の刊行情報および公開情報より。
文庫版は角川文庫の上下巻で読めます。上巻は288ページ、2012年5月18日発売。※ページ数・発売日はAmazon商品ページの登録情報より。
そして本サイトの読者に特にお伝えしたいのが、槇えびしさんによる漫画版が全9巻で完結していることです。講談社『アフタヌーン』で連載され、第1巻の電子版は2011年9月23日配信・212ページ。原作の分厚さに構える必要がなく、絵と図で「暦がずれる」という現象そのものを見せてくれるので、私は漫画版から入るのを強くおすすめします。
あらすじ|八百年ずれた暦を、碁打ちが作り替える
主人公は渋川春海(しぶかわ はるみ/作中では安井算哲とも呼ばれます)。幕府に仕える碁方(ごかた)の家に生まれ、将軍の前で碁を打つのが役目という、恵まれてはいるが退屈な立場にいます。彼が本当に好きなのは、算術と星でした。
当時の日本が使っていたのは宣明暦(せんみょうれき)。唐から伝わった暦で、記録によれば貞観4年(862年)から八百年以上も改められないまま使われ続けていました。長く使えば当然ずれます。日食や月食の予報は外れ、季節と暦がかみ合わなくなっていきます。
春海は幕府の命で北極出地——各地で北極星の高度を測り、その土地の緯度を出す旅に加わります。日本列島を歩き、実際に空を測るこの旅が、彼を「碁打ち」から「暦を作る者」へ変えていきます。※測量隊の編成や道中の逸話には諸説があり、作中の描写には創作も含まれます。
改暦は一度では通りません。春海が最初に推した暦は、日食の予測を外して公の場で敗れます。そこから彼は、大陸の暦をそのまま持ってきては日本では合わないこと——土地が違えば時刻も違うという一点に気づき、作り直しに入ります。
結末はどうなる?——「明察」という言葉に戻ってくる
結末の中身そのものは伏せますが、この作品の終わり方の性格だけ書いておきます。
『天地明察』の結末は、勝負に勝って終わる話ではありません。むしろ、負けたあとに何年もかけて測り直し、計算し直し、また出し直すという地味な工程の果てにあります。タイトルの「明察」は、作中では算額(絵馬に書いて奉納する数学の問題)に添えられる言葉として出てきます。答えが正しければ「明察」、間違っていれば別の言葉が返る。自分の答えが正しいと、他人に認められる瞬間を指す言葉です。
つまりこの小説は、最初から最後まで「自分の出した答えは正しかったか」を問い続ける話で、結末はその問いに対する返事として置かれています。私は最後の数十ページで、それまでの測量や計算の場面が全部回収されるのを感じて、思わず前に戻って読み返しました。※史実の改暦の経緯と、作中の演出は必ずしも一致しません。
読みどころ|数学が「熱い」と思えるようになる
1. 算術が勝負ごととして描かれる
神社に算額を奉納し、それを見た誰かが解き、また新しい問題を返す。作中の和算の場面は、名前も顔も知らない相手との真剣勝負として描かれます。ここで登場するのが、後に「日本の数学史上の巨人」と呼ばれる関孝和です。春海が一方的に憧れ、追いつこうとする姿は、少年漫画のライバル関係に近い熱を持っています。
2. 「測る」ことの手触り
星の高度を測り、影の長さを測り、日の出の時刻を測る。この作品は、観測という地味な作業に何度も紙幅を割きます。派手な合戦も政変もほとんど起きません。それでも読ませてしまうのは、測るたびに世界の解像度が少しずつ上がっていく感覚が書けているからだと思います。
3. 応援する側の大人たちがいい
会津藩主・保科正之をはじめ、春海を引き上げる年長者たちの描き方が丁寧です。彼らは春海に「好きにやれ」と言うだけでなく、失敗したときの受け皿まで用意しています。組織の中で若い才能をどう扱うか、という読み方もできる一作です。
史実との接点|貞享暦と渋川春海
渋川春海(1639〜1715)は実在の人物です。彼が作った暦は貞享暦(じょうきょうれき)と呼ばれ、記録によれば貞享2年(1685年)から施行されました。これが日本人の手で作られた最初の暦とされ、春海はその功績で初代の幕府天文方に就いたと伝えられます。※年次・官職名の細部には諸説があります。
大陸の暦をそのまま使うと合わないのは、経度が違えば同じ天文現象でも起こる時刻がずれるためです。作中ではこの補正が物語の山場になります。小説として面白いのは、この一点を「発見」ではなく「敗北から学んだこと」として描いたところでしょう。
同じ時代の江戸を扱った作品と並べて読むと、この国が何を積み上げていたのかが見えてきます。みなもと太郎『風雲児たち』は関ヶ原から幕末までを通して描き、蘭学や測量の系譜も追いかけます。『天地明察』はその系譜の、いちばん最初の一歩にあたります。
現代の私たちへ
八百年ずれた暦を、みんなが「そういうものだ」と思って使い続けていた——この設定がいちばん怖いところです。誰も嘘をついていないのに、全員が少しずつ間違った日付で生きている。
職場のやり方、業界の慣習、自分の前提。長く使っているものほど、ずれていても気づけません。春海がやったのは天才的な発明ではなく、実際に測り直したことだけです。ただ測り直したという当たり前の作業を、それまで誰もやらなかった。それだけで八百年が動きました。私たちの手元にも、測り直していない「暦」がいくつかあるはずです。
こんな人におすすめ
- 合戦ものではない江戸時代の物語を読みたい人
- 数学・天文・測量など「理系の歴史」に興味がある人
- 厚い小説が苦手で、まず漫画版(全9巻)から入りたい人
- 映画『天地明察』を観て、原作の細部を知りたい人
- 失敗してから立て直す主人公の話が好きな人
『天地明察』をお得に読む
小説は角川文庫の上下巻、漫画版は全9巻で完結しています。まず漫画版1巻で「暦がずれる」という感覚をつかみ、面白ければ小説へという順番が、いちばん挫折しにくいと思います。
よくある質問
『天地明察』の漫画版は完結していますか?
はい。槇えびしさんによる漫画版は全9巻で完結しています。Amazonには全9巻の完結セットも用意されています。※巻数はAmazon商品ページの登録情報より。
小説と漫画、どちらから読むべきですか?
どちらからでも楽しめますが、和算や天文の用語で立ち止まりやすい作品なので、漫画版から入ると図解の助けが効きます。小説は文庫上下巻で、心情描写と当時の空気の厚みがまるで違います。
歴史の知識がなくても読めますか?
読めます。合戦や政変が主題ではなく、ひとりの男が仕事に取り組む話として書かれているためです。江戸前期の将軍が誰かを知らなくても、まったく問題ありません。
巻数が多い作品は、読み放題のほうが総額を抑えられることがあります。1冊ずつ買い足すか、月額で一気に読み切るかは、残りの巻数で決まります。まず対象作品に入っているかだけ確認してみてください。
まとめ
『天地明察』は、八百年ずれた暦を作り替えた碁打ち・渋川春海の一代記です。派手な合戦はなく、代わりに測量と計算と、一度の大きな敗北があります。タイトルの「明察」は、自分の答えが正しかったと他人に認められる瞬間の言葉。その一言を受け取るために生涯をかけた男の話だと思って読むと、最後の余韻が深くなります。まずは漫画版全9巻から、あるいは角川文庫の上下巻から。江戸時代の入り口として、これ以上に間口の広い一作はなかなかありません。
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