白浜と聞くと、まず白い砂浜と温泉が浮かびます。けれどこの海岸には、源平合戦の勝敗を左右した水軍と、飛鳥時代の天皇が三度も通った湯が重なっています。今回は海水浴でも温泉でもなく、「読む→歩く→また読む」の目で南紀白浜を歩いてみます。
三段壁|断崖の下に、熊野水軍の伝説がある

三段壁は、白浜の南端に切り立つ断崖です。その崖の下にある海食洞が「三段壁洞窟」で、エレベーターで降りて中を歩けます。洞窟内には熊野水軍の番所を再現した展示や、大きな辯才天像が置かれています。
語り継がれてきたのは、「熊野水軍がここに舟を隠した」という伝説です。平安末期、この海を根城にした水軍が断崖の下へ舟を入れ、外から見えないようにした——という筋書きです。
ただ、私はここで一度立ち止まりました。紀州は彼らの本拠地であって、わざわざ舟を隠す必要があったのかという疑問が残るからです。実際、水軍は自然の入り江を停泊地として使っていたと考えるほうが自然だ、という見方もあります。※舟隠しの逸話は伝承であり、史実として確定したものではありません。諸説あります。
それでも、この洞窟に立つ意味はあると思いました。伝説が生まれるほど、この土地の人にとって熊野水軍が「うちの海の話」だった——その事実のほうが、真偽より重いからです。
熊野水軍と湛増|壇ノ浦の勝敗を分けた「どちらに付くか」
熊野水軍を率いたのは、記録によれば熊野三山を統括する第21代熊野別当・湛増(たんぞう)とされます。源平が争ったとき、熊野は平家にも源氏にも縁があり、どちらに付くかを決めかねていたと伝えられます。
その去就を決めたとされるのが、田辺の闘鶏神社(とうけいじんじゃ)に伝わる逸話です。紅白の鶏を闘わせ、白(源氏)が勝ったのを見て源氏方に付いた——という話が残っています。※『平家物語』などに基づく伝承で、経緯には諸説あります。
そして湛増の水軍は屋島、続いて壇ノ浦へ向かい、源氏の勝利に大きく働いたと伝えられます。つまり、この白浜・田辺のあたりは「平家が海に沈む一手が決まった場所」ということになります。
ここが歩く価値のある理由|当サイトではこれまで、厳島神社(平家の絶頂)、六波羅蜜寺(陸の拠点)、赤間神宮・壇ノ浦(海の終焉)を歩いてきました。白浜はその「終焉を決めた側」にあたります。四点目でようやく、源平の海が一周します。
白良浜|観光地の顔の下にある、もっと古い層

白良浜まで戻ると、景色は一気に現代のリゾートになります。けれどこの一帯の温泉は、古代には「牟婁(むろ)の湯」と呼ばれていました。
記録によれば、658年に斉明天皇(中大兄皇子が同行したと伝わります)、690年に持統天皇、701年に文武天皇と、三度の行幸があったとされます。飛鳥・藤原京の時代に、都からここまで来ていたことになります。※年次・同行者は『日本書紀』『続日本紀』の記述に基づくとされますが、細部には諸説あります。
私はこの重なりが面白いと思いました。同じ海岸線に、7世紀の天皇の湯治と、12世紀の水軍と、21世紀の海水浴が積み重なっている。歩いているのは同じ砂浜なのに、掘れば層が違います。
円月島|夕方に取っておきたい一枚

円月島(正式には高嶋)は、中央に丸い穴が空いた小島です。三段壁の洞窟と同じく、波が岩を削ってできた地形で、この海岸線が長い時間をかけて彫られてきたことがよくわかります。
歩く順番としては、昼に三段壁の洞窟へ降り、夕方に円月島で締めるのがおすすめです。洞窟の暗さと湿った空気を体で覚えてから夕日を見ると、「ここに舟を隠したという話が生まれた理由」が少しだけ実感として残ります。
歩く前に読んでおくと、景色が変わる本
源平の海を歩くなら、やはり吉川英治さんの『新・平家物語』が入口として強いです。平家の栄華から壇ノ浦までを、人物の側から追える長編で、熊野の去就がどれほど重い判断だったかが体でわかります。全16巻と長いのですが、合本版なら通しで読めます。※巻数・形態はAmazon商品ページの登録情報より。
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歩き方メモ
- 三段壁洞窟はエレベーターで崖下へ。洞内は約200mの見学路で、熊野水軍の番所の再現展示があります。※所要時間・料金・営業時間は変わることがあるため公式情報でご確認ください。
- 闘鶏神社は田辺市にあり、白浜の中心部からは少し離れます。湛増の逸話まで見たい方は、行程に組み込んでおくと動きやすいです。
- 夏は日差しが強く、断崖の上は日陰が少ない場所です。水分と帽子は必須だと思っておいたほうが安全です。
まずは無料でためす|源平ものは長編が多く、相性の差が大きいジャンルです。読み放題や聴き放題の初回無料を使えば、一巻ぶん試してから続けるか決められます。
まとめ
南紀白浜は、海水浴と温泉の土地であると同時に、飛鳥の天皇が三度通った湯があり、源平の勝敗を左右した水軍の伝説が残る土地でした。三段壁の舟隠しは伝承の域を出ませんが、その話が生まれるほどこの海が水軍の海だった、という事実は動きません。
現代の私たちへ|熊野は、平家にも源氏にも縁がありました。だからこそ「どちらに付くか」を最後まで決められなかったし、決めた瞬間に歴史が動きました。どちらにも義理がある立場は、優柔不断ではなく、いちばん重い決断を任される立場だということです。旗色を早く決めた人より、迷った人のほうが結果を左右することがあります。
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