避暑地としての軽井沢は、まだ百四十年ほどの歴史しかありません。その前の二百六十年、ここは中山道の宿場町でした。碓氷峠を越えてきた旅人が、ようやく荷を下ろす最初の宿。いま人があふれる旧軽井沢銀座は、その旧街道そのものです。読んでから歩くと、避暑地の下に街道が透けて見えてきます。
軽井沢は「避暑地」になる前、中山道の宿場だった

中山道は江戸と京都を内陸で結んだ街道で、六十九の宿場が置かれました。軽井沢宿はそのうち、難所の碓氷峠を上州側から越えて信濃に入った最初の宿です。すぐ西の沓掛宿・追分宿と合わせて「浅間三宿」と呼ばれ、峠越えの人と馬でにぎわいました。
旧軽井沢銀座を歩くと、道幅がやけに一定で、脇道が直角に入っていることに気づきます。これは観光地の設計ではなく、街道と宿場の骨格がそのまま残っているからです。土産物屋の看板を一枚はがすと旅籠が出てくる——そんな想像をしながら歩くと、同じ通りがまるで違って見えました。
碓氷峠を越える旅人は、何を祈ったか
軽井沢の東、旧中山道の碓氷峠の頂には熊野皇大神社が鎮座しています。社殿の中央を信濃と上野の国境が通り、一つの社が二つの国にまたがるという珍しい形です。峠は交通の難所であると同時に、境界=異界との境目でもありました。旅人はここで無事を祈り、峠を下ったのです。※創建の由緒には諸説あります。
中山道は物流の道であると同時に、信仰の道でもありました。善光寺参り、お伊勢参り——一生に一度の旅に出た庶民が、この峠を歩いています。街道の宿場は、そういう祈りの旅を支える装置でもありました。
雲場池——水が集まる場所に、人は集まった

雲場池は、御膳水と呼ばれる湧水を源とする流れがつくった池です。浅間山の火山灰が積もった土地は水はけがよすぎて、水の得られる場所は限られていました。宿場が置かれた場所も、湧水と地形で決まっています。※地名や由来には諸説あります。
観光地図では池は「景色のいい場所」として扱われますが、街道の目で見ると水場は宿場の生命線です。人が集まる理由は、たいてい風景より先に水にあります。
明治十九年、宣教師が見つけ直した軽井沢
幕末から明治にかけて、街道の役目は鉄道に移ります。宿場町としての軽井沢は急速に寂れました。そこへ1886年(明治19年)、カナダ人の聖公会宣教師A・C・ショーが訪れ、故郷に似た高原の気候を気に入って別荘を建てます。これが避暑地・軽井沢の始まりとされています。※「発見」の年次や経緯には諸説あります。
やがて碓氷峠にアプト式鉄道が通り、東京から直行できるようになると、外国人宣教師と日本の知識人が集う土地に変わりました。街道が捨てた町を、鉄道が別の用途で拾い直した——軽井沢の面白さはこの転身にあります。
白糸の滝——浅間山が三百年かけて濾した水

白糸の滝は、川が落ちてできた滝ではありません。浅間山に降った雨が地中を長い時間かけて流れ、岩壁の全面から湧き出しています。だから水量が季節でほとんど変わらず、真夏でも冷たいままです。
峠を越えてきた旅人にとって、この一帯の水は何よりのごちそうだったはずです。私はここで手をひたして、ようやく「なぜ人はここで休んだのか」が腑に落ちました。
現代の私たちへ
軽井沢は、街道という役目を失ったあとで、まったく別の理由からもう一度必要とされた町です。宿場としては終わったのに、気候と水という「もともと持っていたもの」が、別の時代に評価され直しました。
役目が終わることと、価値が尽きることは同じではありません。持っているものを手放さずにいれば、時代のほうが用途を見つけ直してくれることがある——峠道を歩きながら、そんなことを考えました。
歩く前に読んでおきたい一冊
明治初期の日本の街道と宿場を、外国人の目で細かく記録した旅があります。イギリス人旅行家イザベラ・バードの日本奥地紀行を漫画化した佐々大河『ふしぎの国のバード』です。宿場の設備、道の状態、人々の暮らしぶりが具体的に描かれ、街道歩きの解像度が一段上がります。
まとめ
軽井沢を歩くなら、旧軽井沢銀座=旧中山道、碓氷峠=国境と祈りの場、雲場池と白糸の滝=土地を支えた水、という三つの補助線を引いてみてください。避暑地の風景の下から、峠を越えた人々の足音が聞こえてきます。



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