歴史ものの主人公は、たいてい若い。志を立てるのも、剣を取るのも、二十代か三十代です。ところが今年に入って読み返した四作は、そろって「もう遅い」と言われる年齢から話が始まっていました。五十歳で初めて父になる男、還暦で隠居したはずの剣客、五十を過ぎて悪名のほうを引き受けた家老、三十八で小説を書きはじめた元・英語教師。年齢という物差しで並べると、歴史ものの読み方がひとつ増えます。
この四作に共通する効きどころ——「間に合わなかった人」が主役になっている
ゼロから成り上がる話は、若さという資本を前提にしています。失敗しても次があるから、思い切って賭けられる。歴史ものの王道であり、私も好きな型です。
この四作は、その前提を外したところから始まります。持ち時間が足りないと本人が分かったうえで動き出すので、話が「勢い」ではなく「段取り」になるのです。何を先にやるか、何を捨てるか、誰に引き継ぐか。読んでいて胸が騒ぐというより、姿勢を正したくなる四作でした。
- 五十歳——焼け跡の大阪で初めての子を抱いた男が「二十歳になるまでは死なん」と誓う
- 還暦——腕は江戸屈指なのに、事件を解くのは剣ではなく人の事情を読む目
- 五十過ぎ——弁明を一つずつ捨て、悪名のほうを選んで藩を残す
- 三十八——神経をすり減らした英語教師が、猫の話を書きはじめる
年齢を軸にすると、歴史は「何を諦めたか」で読める
若い主人公の物語は、何を手に入れたかで進みます。対して四十代・五十代から始まる物語は、何を諦めたかで進みます。全部は取れないと知っている人の選択なので、一つ選ぶたびに何かが確定して消えていく。その消え方が、そのまま人物像になります。
もうひとつ効くのが、時間の単位が変わることです。若い主人公なら一年で人生が変わりますが、この四作は十年単位でしか動きません。『流転の海』にいたっては、作者が書き継いだ年月そのものが三十七年です。読むのに時間がかかる作品を、時間の話として読む——そう構えると、長さが欠点ではなくなります。
なお「教えた側と受け取った側」という近い軸は師弟で読む完全ガイドで扱っています。あちらは二人の関係、この記事は一人の残り時間が主題です。若さを資本にした型を読みたい方はゼロから成り上がった主人公5選のほうが合います。
四作を一作ずつ
『流転の海』宮本輝/五十歳で父になった男の、三十七年
なぜ効くか。敗戦直後の大阪で事業を立て直しにかかった松坂熊吾が、五十歳で息子・伸仁を授かるところから始まります。病弱な乳飲み子に向かって「お前が二十歳になるまでは絶対に死なんけんのう」と誓う——この一行が全九部を支える柱です。逆算で生きると決めた人の話なので、事業の浮き沈みよりも、熊吾が一年ずつ年を取っていくことのほうが事件になっていきます。
一人称の推し。第一部の刊行が一九八二年、完結した第九部が二〇一八年。作者が三十七年かけて書き継いだ結果、書き手も主人公と同じだけ年を取ってしまったという珍しい作品です。読者だけが数か月で追い越せてしまうことに、途中で申し訳なさのようなものを感じました。四作のなかで最も長いので、覚悟が要る一作でもあります。
『剣客商売』池波正太郎/還暦の剣客は、もう勝ちにいかない
なぜ効くか。主人公の秋山小兵衛は、四十歳も年下の妻おはると鐘ヶ淵の隠宅で暮らす隠居の剣客です。腕は江戸屈指なのに、ほとんどの話で事件を解くのは剣ではなく「誰の事情でこうなったか」を読む目のほう。強さを誇示する必要がなくなった人だけが持てる余裕が、そのまま作品の空気になっています。
一人称の推し。シリーズが正面から書いているのは、剣客が老いていく時間です。若い息子・大治郎と並ぶことで、小兵衛の側の「退き際」が毎巻すこしずつ濃くなる。事件のあとに必ず何かを食べる場面が挟まるのも、残りの時間を味わっている人の描写だと私は思っています。一巻が薄く価格も抑えめなので、四作のなかでは最も入りやすい一作です。
『樅ノ木は残った』山本周五郎/五十過ぎの家老が、名前のほうを差し出す
なぜ効くか。寛文年間の伊達騒動で、歌舞伎でも講談でも「幼い藩主を害そうとした悪玉」とされてきた原田甲斐を、仙台藩を残すためにあえて悪名を引き受けた男として描き直した長編です。記録によれば甲斐は江戸の大老屋敷での刃傷で斬られ、原田家は断絶しています。動機については諸説あり、本人の内心を直接語る史料は乏しい。周五郎はその空白に別の像を置きました。
一人称の推し。甲斐はほとんど自分の内心を語らず、地の文も説明しません。中巻で弁明を一つずつ捨てていく過程が長く、そこを我慢して読むから終盤が効きます。「誰にも説明しない」と決めた人間の疲れが淡々と書かれていて、私は下巻の後半で降りる駅を一つ乗り過ごしました。四作のうち、最も引き際が重い一作です。
『坊っちゃんの時代』関川夏央・谷口ジロー/三十八歳の新人作家がいた明治
なぜ効くか。五部作の第一部が夏目漱石、第五部がふたたび漱石で、修善寺で大量に血を吐いた「修善寺の大患」が軸になります。教科書の中では最初から文豪だった人が、この作品では途中から書きはじめた人として出てくる。第二部は森鷗外、第三部は石川啄木、第四部は幸徳秋水と大逆事件で、主人公が部ごとに入れ替わる構成です。
一人称の推し。四作のなかで唯一のまんがで、しかも年齢の話を「体調」で描いています。志や決意ではなく、胃が痛む・血を吐く・眠れないという形で残り時間が迫ってくる。谷口ジローさんの線がそれを誇張しないので、余計に効きました。第一部と第五部だけは通しで読むことをおすすめします。
あなたはどれから読むべきか
時間があまり取れない方は『剣客商売』から。一話完結の連作なので、一巻だけで作品の呼吸が分かります。まんがで入りたい方は『坊っちゃんの時代』第一部。全五部でも合計はそれほど重くありません。一本の重い読書がしたい方は『樅ノ木は残った』上中下。この先何年かかけて付き合う一作を探している方だけ『流転の海』へ進んでください。九冊あります。
時代の背景から押さえたい場合は、江戸時代を漫画と歴史小説で学ぶ完全ガイド(『剣客商売』『樅ノ木は残った』)と明治・大正・昭和を漫画と歴史小説で学ぶ完全ガイド(『坊っちゃんの時代』『流転の海』)が入口になります。全巻そろえたときの金額が気になる方は長編は全巻そろえるといくらかもどうぞ。
本命の一作から始めるなら
四作のうち、最初の一冊のハードルがいちばん低いのは『剣客商売』です。文庫一冊が薄く、価格も抑えめで、合わなければそこで止められます。合えば十六巻ぶん、還暦の剣客に付き合えます。
小説版から読む(新潮文庫)
現代の私たちへ
四作を並べて読み終えたとき、残ったのは「遅いかどうかは、始める側が決めていない」という感触でした。熊吾は五十歳で父になることを選んだのではなく、そうなったから逆算しただけです。甲斐も、悪名を選びたかったわけではない。年齢の話は、たいてい選択の話ではなく引き受けの話でした。
そのうえで四人に共通していたのは、残り時間を数えたあとに手の届く範囲まで仕事を小さくしていることです。熊吾は息子が二十歳になるまで、小兵衛は目の前の一件だけ、甲斐は自分の代で、漱石は今日書ける枚数だけ。大きな志を掲げ直すのではなく、単位を縮める。これが四作から受け取った、いちばん実用的なところでした。
まずは費用をかけずに一冊ためす
四作とも長さがあるので、いきなり全部そろえる必要はありません。読み放題や聴き放題の無料期間で最初の一冊だけ試し、年齢の描き方が自分に合うかを確かめてから買うのが確実です。対象作品は時期によって入れ替わるので、無料期間のうちに候補が入っているかを見ておくと無駄がありません。
まとめ
五十歳、還暦、五十過ぎ、三十八。数字だけ並べると地味ですが、いずれも「ここから何ができるか」を計算し直した年齢です。歴史ものは若者の物語だと思って離れていた方にこそ、この四作は届くはずです。
読む順番に正解はありません。ただ、四作とも途中で止めても損をしない作りになっています。合わなければ一冊で降りられる——そこも含めて、年齢の話に似ていると思いました。
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